朝起きて、朝食を終えて新聞を開く前に、今日こそ素敵な明るい記事が載っているかな~と思いつつ新聞を広げるのが日課なのですが・・・
常に期待を裏切られるのが残念です。
最近特に目立つのが、親の虐待です。それも親として信じられないような虐待を自分の子にするというのは、どのような原因があるのか知りませんが決して許される行為ではないのです。
本当に愛していればできないことではないでしょうか。
私も2人の子供が授かり、一生懸命愛情を持って育てました。子育ては大変なことですが、日々成長する我が子を見るのは幸せそのものです。しかしながら子供は子供なりにいたずらもするし
言う事を聞かないことも多々あります。私も普通の親ですから、言う事を聞かなければお尻の一つや二つ叩いたこともありました。しかし夜になりすやすや寝ている我が子の寝顔ををみると、何であんなに怒ってしまったのかしら・・・と自分を攻めては涙したものです。
最近読んだ本に感銘する文章が書かれていました。堀田力さんの「愛の本質」と章です。抜粋して書きますので読んでください。
愛することは、すばらしい。でも、なぜだろう。
愛の本質は、共感ではなかろうか。
子を持てば、子の立場でものを感じ、ものを見る。
普通のおじさん、おばさんである担当教師が、特別えらい人に思える。
妻が女性差別を受ければ共に怒り、夫の会社の浮沈に共に一喜一憂する。
相手を愛していなければ、およそ経験することのない感じ方、見方である。
共感は、見方を広げ、経験を倍加し、人生を豊かにし、そして、手本をもたらす。
全ての人が、全ての人を愛するようになった時、戦いは地上から消え、
世界中が温かいふれあいの社会になるであろう。
現実には、飢餓状態でパンが一つしかなければ、愛する人同士でも争うはずですが、平常時の気持ちの中では、「相手を愛して、自分を犠牲にしてでも相手を大切にする」ことにあこがれを持っています。こういう気持ちはとても健全で大切な気持ちです。恋愛小説ほど自分を犠牲にすることはできないかもしれませんが、できるだけそれに近いくらい相手の気持ちを思いやり、相手の気持ちに共感し、相手を大切にしていく。そういうことができれば、人としてとても幸せな事だと思います。
人間関係における決め手はやはり「共感」です。自分は相手と立場が違い、同じことを経験しているわけではないけれども、それでも自分がその立場に立って気持ちを理解することはできます。
子供の立場になって気持ちを考えたり、妻や夫の気持ちになってみたりすれば、相手のことがより理解でき、より愛することができ、自分の幅も広がっていきます。
こうして、誰もが共感の幅を広げていけば、すばらしいふれあい社会ができるのではないでしょうか。
とても考えさせられる文章ではないでしょうか。